はじめまして、たいらと申します。a tempo(アテンポ)というマニュアル作成会社の代表をしております。
は?知らんし。興味ねーし。やっちまうぞコラ。
かわいい顔してどえらい汚い口叩きますね。でもあいにくでしたね、こんなことで心折れるような鍛え方してないんで。
どの口が言ってんの?たるみ切ったダルンダルンの体して。
ポキッ。\(^o^)/
とは言え弊社の抱えるたった二名の愛するバーチャル社員、亀吉と鶴子。ここはひとつ大人なマネジメント手法を用いて協力してもらうことにしましょう。

たいら社長はどういったキャリアをお持ちなんですか?
お仕事もそうだけどたいらさんの生い立ちや人間性も知りたいわ♪
やれやれだぜ。
二人がどうしてもって言うからしぶしぶ私のこれまでの生き様を語ってあげようと思います。特別にね。今日だけね。
大まかにはプロフィール欄をご覧いただければお分かり頂けるかと思うのですが、もう仕事もプライベートもごちゃ混ぜにして筆の向くまま書き連ねていきたいと思いますので暇で死にそうな方はお付き合いください。だいぶ長いんで(笑)
( ˘ω˘) スヤァ・・・
幼少期編
たいら、誕生
冥界でサタンとヘラの間に産み落とされました。ウソです。広島の一般家庭で何不自由なくすくすくと育てられました。井ノ口ってゆうちょっと広島市の西の方に生まれたらしいんですがエビデンスは提示されたことがないので両親から洗脳されているだけかもしれません。広島駅近くのマンションで私の自我は目覚めます。
- お父ちゃんは大手ゼネコンに勤めるまぁまぁええ感じのサラリーマン
- お母ちゃんは音大出身の主婦でちょこちょこ自宅でピアノ教室
- お兄ちゃんは二つ歳上のせいらくん
せやねん、たいらって下の名前やねん。「泰良」って書きます。征良お兄ちゃんはちっちゃい頃は小公女セーラとか聖闘士星らとかってたまーに笑える程度にイジめられてましたね。その点僕は一風変わってるだけなんで平和なもんでしたわ。
いやむしろたいらって絶妙な名前でしてね。ほんまに親の卓越したネーミングセンスに感謝してるんです。危うく「おおら」って名前になるとこだったらしいんですが、そしたらきっと片目カラコンにそり込み入れてボンタン履いてキティちゃんの健康サンダル履いて夜な夜なガードレール蹴り倒してたでしょうね。せいらはどーやねんって話ですけど残念なことに立派にサラリーマンしてはりますわ。
「へ?たいらって下の名前なんですか?!」
「はい中村ですすんまへん!えらいつまらん苗字ですんまへん!」
このくだりを人生で62435325615回はやってます。もう掴みネタみたいになってます。いくつになっても下の名前で呼んでくれる人がたくさんいることに私はしやわせを感じております。

幼稚園の頃の思い出といえば
- うちの押入れの中でスプリンクラーに頭ぶつけて3針縫ったこと
- 雲梯から落ちて足の骨折ったこと
- 割りばし鉄砲作ろうとして小刀で指ガッツリいったこと
くらいです。自傷癖ですかね。あとは幼稚園のお庭にビワの木があって登り散らかしてビワもぎ散らかして投げ散らかしてました。
たいら、小学校に入学
なんてことない公立の小学校。徒歩20分ちょいくらいのエグめな距離がありましたがエチオピアに生まれなかっただけ良しとしましょう。学期終わりに朝顔かなんかの鉢植え持って帰んなきゃいけないことがあって、そん時鬼辛かったのはいまだに覚えています。まぁエチオピアに生まれなかっただけ良しとしましょう。エチオピア出身の方いたらえらいすんまへん。
小学校ではフツーに手打ち野球したり、かめはめ波の特訓したり、消しゴムのカス丸めたり。幼稚園がカトリックだったのもあってかわからんですが、教会の日曜学校行ったりしてました。洗礼とか受けてませんけど。お昼がいつもうどんだったことに違和感を覚えていました。毎週唱えてたからなんか覚えてるじゅもん。
主よ、今日も私はしてはならないことをし、しなければならないことをせず、思いと言葉と行いによって、多くの罪を犯しました。
身に覚えがありません
お母ちゃんにピアノ習ったり、スイミングスクール行ったり、公文行ったり、学習塾行ったり、習字教室通ったり。他にもちょこちょこ習い事かじったけど、たぶんハマんなかったのはすぐ辞めさせてもらってたんでしょうね。嫌々行ってた感覚ないんで。

たぶん3年生のとき、習字教室で文鎮(long edition)を新聞紙に包んで振り回してたら文鎮(long edition)だけすっぽ抜けて4年生の木村さんとこのお嬢ちゃんに当たって耳に傷を付けてしまいました。完全に時が止まった感覚。今考えても本当にゾッとします。当たり所悪ければ一生残るような傷をつけてたわけですから。わかんないですけど死ぬほど反省してたんでしょうね、怒られた記憶はありません。
あとすごく思い出深かったのが、オーケストラの指揮をしたこと。ピアノやってたから合唱の時にオルガンとか指揮とかのタスクがよく降ってきてたんですよね。近くの音楽大学のおにーさんおねーさん達が校歌を演奏してくれる機会があって、その時60人くらいのオケのコンダクトを執ったんです。全校生徒が背中で歌ってて。たぶん一生忘れないと思います。
オーケストラの指揮!すごいですね!(自慢かよ・・・ケッ。)
ここまで書いてて思ったんですけど、私に限らず学生時代のエピソードってほぼ黒歴史か武勇伝の2択になる予感しませんか?中高どうしよう・・・。しこたま手間暇かけて記事書いた挙句にわしは好感度落とすんやろか・・・。ちょうど1つずつ披露したとこで恐る恐る進学しますかね。
あ、あと小学校近くの公園にザクロの木があって登り散らかしてザクロもぎ散らかして投げ散らかしてました。
学生時代編
たいら、中高一貫校に入学
無事お受験に成功して第一志望の中学に入学します。ちなみに小学校5年生のときに担任の三輪先生がこう言ってました。
今はやんちゃな男の子が人気だけど、たいらくんお勉強も運動も得意だから中学校行ったらたいらくんみたいな男の子の方が絶対女の子にモテるよ!
三輪先生、6年間男子校に通うことになったよ。

で、その中学には1年生から運動部に入らなきゃいけないって謎ルールがありました。将来的にヤンキースに入るかブルズに入るかレアルに入るか悩んでたところに仲良しの斎藤君が「バレー部入ろうよ、絶対楽しいよ」とか言ってきたもんだからパニックです。
悩み抜いた末、あえて一番苦手だったサッカー部に入ります。上手くなりたい。ちなみにバレー部に入った斎藤君は秒で幽霊部員になってました。危うく口車に乗せられるところだった。
公立ガチ勢ほどではないですが、結構ガッツリ練習してました。始発で朝練して、休憩時間の度に山走り回って、放課後も練習して。FWだったんですが、点を取ることよりもベンチを温めるスキルに才能を見出されていました。

で、中学3年生くらいから音楽とか服とかに興味を持ち始めて、ちょっとだけ悪い遊びも覚え始めます。法や校則を犯すものではないですけどね。たぶん。知らんけど。
バイト禁止だったし、もちろんお小遣いなんてロクに与えられてなかったんですけど、部活の無い休みの日は小銭しか持たずにCD屋で視聴のやつ聞き漁ったり、ゴリゴリのハイブランドのセレクトショップを物色してました。
当時は広島にあんまりDCブランドが充実してなかったからってのもある気がするんですけどね。紳士服店で買った2000円くらいのパンツを七分丈とかにリメイクしてたなぁ・・・懐かしい・・
音楽はJ-POPしか聴かないくせにRAF SIMONSとかマルジェラとかに憧れるという異様な価値観を持った中坊。スタンスミスがたったの6万円で買えるブランドですよ。今ならなんと20足で120万円!!是非下のリンクからお買い求めください。他のリンクからなら買わなくていいです。色々あるんですよ。いろいろ。
実際はナイキとか着てました。しかもたぶん正規品じゃないやつ。
たいら、高校へ進学
高校にもなってくると好きなものとか、趣味とか、遊び方とかでちょっと派閥みたいなん出来てきまして。うまいことやれるヤツは良いんですが、未完成の八方美人がたたって微妙にうまいことやれなかった勢。
そんな中でも高1のときに初めてバンド組んだんですよね。コピーですけど。うまいこと使われる勢の僕はシンセ+コーラス。楽しかったけど、このとき「センターで歌いたい」って強く思いました。
で、そんなほろ苦くも楽しかった学生生活のとある日、突然両親から告げられます。
パパお仕事東京になったから転校してもらうぜ?

マジか、と。しばらく頭真っ白ですよ。どんな顔してみんなに報告したか覚えてません。ただサッカー部のキャプテンから「サッカー辞めんなよ」って言われてユベントスのユニフォームもらったこと、バンドやってたヤツらに盛大に送別会してもらったことは忘れません。
でね、引越予定日がせっかく招いてくれた送別会の翌日とかに設定されたんですよ。だから当然ゴネますよね。でもどっちもそう簡単に変えられるもんじゃなくて。
引越の日、家族全員で広島駅前に着いて「わし、やっぱりあと3日だけ広島おりたい」って言ったら母ちゃん溜息吐きながら5万円握らせてくれた。ええ話や。
たいら、高校を転校
高校2年生の春に首都圏の高校に転校しました。こちらも中高一貫の男子校。
ざまぁwww
誰を恨むわけでも感謝するでもなく、この転校は私のパーソナリティにかなり影響を与えたと思います。周りはコミュニティ出来上がってる。とは言えみんな頭良いし決して排他的なわけでもない。ちょっと大げさかもしれないですが、自分の立ち振る舞い、ブランディング次第で周囲の環境、見方が如何様にもなるみたいな。
サッカー部には入りました。でも広島のときと真剣度がまるで違くてモチベーションは上がらなかったです。バンドはやりたかったけどもうみんな組んじゃってるし。幸いわりと服とか音楽が好きな元気なヤツらと仲良くなれました。
ひっそりギターとかブルースハープをいじり始めて、文化祭でアコースティックライブとかはやりました。前日リハで本気出し過ぎて全然声出なかったほろ苦い思い出(笑)当時ハイスタが無茶に流行ったおかげで模倣した💩みてぇなバンドが山ほどあってその辺アホほど聞いてました。結論ハイスタより偉いバンドはありませんでした。

一方で夢の街原宿が近くなったもんだから毎週のように通いつめてました。店員さんと仲良くなって、入荷日調べて、並んで買って、委託販売で売る。これを繰り返して自分の好きな服買うお金作ってました。UNDERCOVER、GOODENOUGH、SUPREMEとかの全盛期。
SUPREMEが現代の若者のブランドだと思っている方はご連絡ください。小一時間の講義を行います。
服についてはDC⇒パンク⇒裏原宿(+スケーター)みたいな遍歴です。そして今でもそこで止まっているという奇跡。まぁブランド自体が変貌しているので今の私を見て「裏原宿系おっさんだ!」と思う人は少ないと思いますけど。
いい歳なんだからほどほどにしとけよ?
たいら、無事浪人
もう服とか音楽好き過ぎて、勉強とかどうでもよくて、でも大学に進学しないなんて選択肢はあることにすら気付かなくて。教育費を山ほど私に投資してくれた両親が首を縦に振るレベルの大学に行くためのモチベーションがそもそもなかったです。
しょうがないからとりあえずバイトして、バンドやって、しぶしぶ勉強して、なんとかそれっぽい大学には合格することができました。

そう、この頃メタルのコピーバンドで立ちボーカルとかもやったりなんかして。全っ然好きな音楽じゃなかったんですが、おかげで声量とハイトーンが飛躍的に向上。耳障りの悪い歌声の土台を築いてくれました。
たいら、大学へ進学
いやー、おもんなかった(笑)いや、順応して楽しもうとしなかった自分に責任があるんですけどね。未だにその癖はあるんですが、おもんないっぽいヤツにはペラペラな話しかしないし、おもろいっぽいヤツには嫌われないようにセーフティネットを張る。ヘタレ。
イベントサークルとか、サッカーサークルとか、広告系サークルとかいろんなところに顔は出したんですよ?でもどれもしっくり来なくて。うぇいうぇいアレルギーがひどくて新歓コンパの時点でアナフィラ起こすっつぅ。
語学のクラスとかにもそんな馴染めなくて、残ったのはバンドサークルのみ。広島のときの友達とかと遊んで、入学前に始めた飲食店のアルバイトに週5日くらい入って、大学の外でもバンドして。ギターとエフェクターとカバン持って横浜、町田、高田馬場のデルタ地帯を駆け巡ってました。
飲食店のアルバイトがこれまた楽しくて。ディベロッパー内のお店だったんですが規模が小さかったから厨房からホールまで一通り覚えるわけです。しかも店のコンセプトがブレブレだったおかげで様々な業態を経験できました。揚げ物中心の居酒屋が最終的にはなぜかインポートビールの専門店。銀座の路地裏で2坪くらいでやれば収支組めたかもしれないですね。
たいら、無事退学
3年も通って大学辞めました。紆余曲折あったんですが、まぁ自分がバランスとり損なったんですよ。両親には頭上がりませんが後悔できるかというとどうしようもなかったかなって思います。
バンドも飲食店もいいけど入った大学を卒業できない程度の人間力でこの先何かしら成功収められるかは怪しいから相当気合入れろよ?
お父ちゃんの毒投げナイフ
一応ちゃんと論文書いて自主退学の形を取ったので6年間は復学可能でしたがそのつもりは全くありませんでした。まずは精一杯バンドやりたいって気持ちが大きかったです。
ホテルマン編
バンド解散
本当にお父ちゃんの言ってた通りでした。バンドを続けるためには仮にいくらカッコ良くても会心の曲書いても、自分のやりたい音楽をやりたいようにやるだけではダメなんです。
レーベル付いた瞬間残念になるバンドもいっぱいあったよね
ビジネスでもブログでも正にその通りで、消費者が求めていることを追求することの重要性を痛感しました。倫理観や義理は大切にしたいですが、手前の価値観やポリシーなんてものに市場価値はありません。どうすれば聞いてくれる人が喜んでくれるかを客観的に考えて、ウザったいくらいのバイタリティでメンバーを引っ張っていかなければいけなかったんです。
いろいろあったんですが、このメンバーで続けられないならいいやって思ってたのですんなりと他の生き方を探ることにシフトできました。

父ちゃんの起業に乗っかる
ちょうど良いタイミングで、お父ちゃんが起業することになりまして。一般管理をお手伝いしながらお勉強しようってことになりました。弊社の前身です。
父は一級建築士だのマンション管理士だの建築設備士だのプロとしての資格を引っ下げて建物維持管理やリフォームの会社を始めました。
経理の仕事くらいはともかく、完全に指示待ち。今思えばサポートできるような資格取るなり、営業に特化するなり貢献の仕方はあったんですが、当時はそんな機転は利きませんでした。
サービス業に転身
このままじゃ一生スネかじりのロクデナシだなーって思った私は一度ガッツリ外へ出ようと決心します。
今はロクデナシじゃないかのような口ぶりが鼻に付くわね
外的要因、自己都合で辞めることが無いように、ということで長くアルバイトで経験していたサービス接客業への転身を図りました。箱根で新規開業する会員制リゾートホテルのスタッフ。
- 開業とかめっちゃ楽しそうやんけ
- 一応大手で福利厚生もそれなりに充実してそうだな
- 箱根に住み込みなら貯金できそうだし家そんな遠くないし
2秒で決まりました。最終面接終わって「ちょっと別のとこで待っててください」って言われてちょこーんと座ってたら5分くらいして内定出てびっくり。スケジュール感や雇用条件も概ね飲み込めるものでしたし。あ、だから合計5分2秒か。
とは言えはじめての一人暮らし、家具家電に車、最低限の現金が必要なので大慌てで準備した覚えがあります。結局車は間に合わず父ちゃんの車を乗り逃げしました。どこまで親不孝なんでしょう。
レストラン部門に配属

開業準備室の段階は楽しくシミュレーションしたりオペレーション構築したりしていたのですが、実際開業してからの業務はなかなかハードでして・・・基本的にランチをやっていないホテルレストランだったので、
- 朝食勤務 : 7:30 ~ 11:00
- 夕食勤務 : 17:30 ~ 22:30
とかなんですよ。お昼の時間帯に上手におねんねできないと体がもたない。食事の取り方も工夫が必要ですし。この「中抜け」や「タスキ」と呼ばれるシフト形態がホテルレストランスタッフの離職率の片棒を担いでいます。業務効率等を考慮してフロント業務もやってもらったりするのですが、それもたぶん離職率上げてます。感覚ですが。
当然料理やドリンク提供のイメージが強いとは思いますが、実際は営業中だけでも以下のような様々な業務があります。
ポジション | 主な業務 |
---|---|
グリーター | 主に責任者で配席コントロールやトラブル対応 |
アテンド | エントランス受付、お客様のご案内 |
キャッシャー | ビル(伝票)、決裁管理 |
デシャップ | 調理場への料理掛けとコースの進捗管理 |
フロントサーバー | お客様への料理提供、オーダーテイク |
バックサーバー | フロントサーバーのサポート |
ランナー | サーバーへ料理やドリンクを運ぶ |
ドリンカー | ドリンクの作成 |
業態、店舗によって呼び方や役割は様々ですし、実際には兼任する場合も多いのですが、ホール10人くらいで回してるように見えるレストランは大体5~10人くらいの影武者たちが暗躍しています。
CSのカギを握るのは花形であるフロントサーバーなのですが、オペレーション上のキーマンはランナーだったりします。運ぶだけなら誰でもできるわけですが、+αでどのくらい機敏に気の利いた立ち回りができるかが腕の見せ所だったりするので。
全てのポジションをやりましたが、上記の理由から私はランナーに一番ロマンを感じていました。当時から顧客目線より運営目線が強かったですね。逆に言うと数字や効率抜きでCS語るヤツは自分で店やれよって思ってました(笑)
時代と業態に合わせた適切なバランス感覚が必要だよね。
さすが亀吉。私の言いたかったことを代弁してくれました。今月から給料200倍だな。(☞¥200)
予約管理部門へ

ほどなくして同施設の予約管理部門の専属になります。レストランの食事予約は
お客様 > フロント > レストラン > 厨房
という伝言ゲームが主に紙台帳を媒体として発生する状況だったんですが、
- ご高齢の会員様の食材に関するNG情報やアレルギー情報管理
- ただの好き嫌いやメニューに載ってないものに関する無茶な要求
- サービスにムリ、ムラが出ないための適切な予約コントロール
こういったものをフロントで行うことが極めて難しくトラブルも多発していたので、おめぇやれやって話になりまして。極端に言うと、
お客様 > たいら > 厨房
にすることで情報処理を円滑化しよう、となったわけです。恐らくあんまりイメージ沸かないと思うのでもう少し踏み込んだ具体例を追加しますと、
- 以前お子様が生ものNGだったこの会員様、この予約でも連れて来られるんかいの?
- 席は空いてるけど18:00の時間がいっぱい、他の時間を勧めてもゴリ押してくる
- 「連れが誕生日なんだけど何かサプライズできないかな?」って前日に相談してくる
発生時の対応はもちろんのこと、お客様と運営側双方にとってこういったストレスをできるだけ軽減させるための仕組み作りがミッションです。事務所にいたのでフロント業務も大方身に付けられましたし、システム化やデータ管理に伴うPC業務にあたることで多少はOffice系の扱いに慣れました。

オペレーション構築、そのマニュアル化と落とし込み。実質的にはこの時に初めて取り組みました。最初の半年くらいはプレッシャーで通勤の度に「何か事故ってやしないだろうか・・」と不安でしかたなかったです。実際事故ありましたし。
仕組み作りは5年かかって当たり前くらいの気持ちでいいんだよ
失敗をしたり失敗してないのに怒られたりしながら当時の上司の言葉に救われました。
プライベートでは箱根の山奥で定刻出勤の仕事だったのでそれはそれは暇を持て余しまして。頻繁にお料理作っては仲間達を寮にお招きしていました。持ち前の見栄っ張りが功を奏して独学でフォン引いたり和食の飾り切りにチャレンジしたり。しまいにゃ同僚達が持て余した食材を持ち込んで何とかして、と。これけっこう料理のスキルアップになりました。「茗荷とベーコン!?」みたいな。iPhoneにUSBで充電しろみたいな。うち200Vの電源しかありませんみたいな。ちょっと意味わからんけど。
東京本社編
レストラン統括部門へ異動
なんとか予約管理含め施設内の風通しが良くなってきた5年目。仕事がお休みのある日、車で御殿場に降りて買い物してたんです。米が底をついていたので10㎏の袋をカートに乗せるじゃないですか。そしたら勤務先のホテルから電話がかかってきました。
10月1日付けで東京本社のレストラン事業部へ異動になりました。よろしくお願いします。
支配人
「えっ・・・」冷静沈着にして泰然自若な私は10㎏の米をそっと5㎏に差し替えました。
そこじゃねーよ。熟語の意味一緒だし。手間かかるボケやめろや。
キャリアアップとしてはチャンス。でも苦楽を共にした仲間達との別れはもちろん辛いわけでして。でも感傷に浸ってる暇も無く新しく上司となる本部のえらい人と連絡取りながら大急ぎで家探して引越業者見つけてうち片付けて。
みんなにはいっぱいプレゼントもらって盛大に送り出してもらいました。絶対自分じゃ選ばないネクタイとか、どう考えてもパジャマにしかならないTシャツとか。メッセージブック?もすごい凝ったの作ってくれて今でも全部大切に使用、保管してます。タイピンは壊れちゃったけど・・・

東京での勤務開始
いわゆるサラリーマンらしいサラリーマン生活のスタートです。最初の3年間はレストランの統括部門だったので、主たる業務としては
- 各施設の帳票整理、分析、現場ヒヤリングからの運営改善提案
- 新規店舗のコンセプトメイク、開業準備
- 衛生管理マニュアルの作成、管理
- 全社横断の料飲イベント企画運営
こんな感じ。資料のための資料のための資料みたいなのを2億枚くらい書きました。外部からのコンサルを招いた施設毎の運営改善プロジェクトがあったのですが、そこでは何の役にも立たない陪席野郎をしながら多くのことを学びました。そんときのコンサルの方々に胸張って挨拶に行くことがひとつの目標です。
箱根にいた間東京方面の友人と疎遠にしていたせいでプライベートはまぁまぁ孤独でしたが、東京に戻って2年目くらいからはダーツバーに籠ることになります。

自称プロとダブルス組んで200チーム規模の大会に出たんですよ。こいつのせいで準決勝で負けました。こいつのせいで準決勝で負けました。大事なことだから2回言いました。こんなこと本当は言いたくないんですけど。誰がどう見てもこいつのせいだからしょうがないんですよ。
ちょっとくらいハンサムだからって調子乗ってんじゃねーよ
で、急なんですがこの頃に起業することについて検討を始めました。今置かれている環境に対する不満ではなく、もっと自身の特性、長所を前面に出したい欲がにょきにょきと芽生え始めたんです。当たり前ですがサラリーマンに仕事選ぶ権利はありませんからね。
千葉の事業所に転勤
これまた突然ですが、初めて料飲だけではなくエリア内施設の運営統括部門への異動を命じられます。左遷に見えて事業所全体の運営数値を管理する部門という意味ではキャリアアップかなぁ、みたいな。ただ、プライベートを踏まえると、内示受けたたときは若干ネガティブでした。
具体的な業務内容については漠然としか書けないですが、
- エリア内事業所、特に料飲施設の運営改善やサポート
- 定量的マニュアルの作成による業務の平準化
- 中堅スタッフに対するマネジメント教育
この時のマニュアル作成のところはかなり良い意味で責任を持たせてもらってドラスティックに数値上の結果を出しにいったんです。施設の方はたまったもんじゃなかったと思いますが、私自身手応えを感じましたし会社から素晴らしい評価をいただきました。
運営側の気持ちを汲み取りながら、経営上の数値にコミットするための実用的マニュアルを作る。これって意外とニッチな特技なのでは。
たいら気付いちゃった

東京本社に凱旋
なんとわずか1年で本社への帰還を命じられます。業務内容はやはり、と言いますか「マニュアルによる業務の平準化」がメインでした。千葉での実績を全社的に水平展開しなさい、と。肝心な my heart はもう起業に向かって go on しているのに。
とはいえ10年勤めさせてもらった会社です。新設部署まで用意されて尻尾まいてズラかるのはあまりにも誠意に欠ける。
もう半年だけ踏ん張ろう。自分の持ってるものをできるだけ形にしよう。
千葉で作り上げたものを新しい部署でブラッシュアップ、内製化しました。で、社内でも指折りの馬鹿デカい規模の施設から着手。たぶんマニュアル化においてこれより高難易度の対象は一生無いと思います。セクション、業態毎にカウントしたら30とかあったんじゃないかなぁ。○○受付、○○食堂、○○営業、みたいな。
全てが円滑にいったわけではありませんが、とても大きな経験値を得ることができたと感じています。
たいら、会社辞めるってよ
いやぁ、言い出し辛かった。でも社会人たるもの退職3カ月前にはキチンというべきだよね、みたいなアレあるじゃないですか。本当に言い出せなくて、ギリ3カ月前の定時オンタイムくらいに上司呼び出して退職を告げました。
え、いや、うん、わかりました、としか言いようがないよね・・・
当時の上司
もちろん担当していたプロジェクトが終わるわけではないので退職までにできることは最善を尽くしました。たぶん。勤務最終日には社長自ら送別会に来てエールを送ってくださいました。
独立起業編

とりあえず遊び散らかす
有給消化等で1カ月位のモラトリアムがありました。11年勤めてましたからこれだけの時間を何すれば良いのかわからなかったですが、取り急ぎ次の仕事のことは忘れて旅行がてら全国のお世話になった人達に挨拶してきました。
それでも時間は余ってましたが、自分の知っている遊びを全力で堪能。で、既に起業している友人達からいろいろとお話聞いて回りました。
何して遊んでたのかいまひとつ具体性に欠けるわね
事業内容を固める
「お前は何屋なんだ?」の問いに対する明確な回答を作るのには苦労しました。もちろんマニュアル作成も主な候補のひとつとして最初からあったんですが、どこまで手を広げるかが非常に悩ましかったんです。
- 異業種からの参入をターゲットにした施設運営業サポート
- 飲食店等小規模事業者に的を絞った運営改善コンサルティング
- マニュアル、資料作成、ライティング等
やってみたいこと、できそうなこととしてこういったアイデアがあったものの、既に起業して億り人となっている友人からこう言われます。
外部での実績が無いんだから絞りに絞らないとお客さん付かないよ
そりゃそうだ。百理ある。
こんちゃっす!自分コンサルっす!仕事ないっすか?
あってもお前にゃ頼まねーよ。そもそも誰だし。
こうなる未来しか見えない。ふむ、どうしたものか。
勝手にマニュアル屋を名乗ると決意
経営コンサルなんて世の中にごまんといる。そして自分はその人達に営業力やパフォーマンスで勝てる見込みは低い。
運営面での教育等についても上場企業のパッケージング商品がわんさかある。廉価でやればお客さんは付くかもしれないけど消耗がキツい。
よし、対面接客型運営業のマニュアル作成に特化しよう。
マニュアル作成だけ?とは言ってもこれまでやってきたことがちっとも無駄にならないことに気付くことができたんです。
- 数字の責任持ってる経営層とプレイヤーの両方の気持ちがわかる
- 業務を棚卸してテキスト、ドキュメントに起こす
- オフラインの運営業従事者の多くが苦手とするPC関連スキル
3. についてはIT関連企業や一般事務を長年している方なら私よりはるかに優れたスキルを持った人が大勢います。でもその人達に1. 2. ができるかと言ったらちょっと負ける気しないな、と。そゆわけで畑は決まりました。
顧客探しの旅に出る

やることは決まった。あとはひたすら営業。
- 何ができるかを明確にした上で、コスト感が伝わるプレゼン資料作り
- フロー型の収入を見据えたパッケージ化
- 友人知人など、片っ端から事業内容を紹介して集客
1.については営業先によって綺麗な資料とアイキャッチ重視の資料を用意。加えて、アポイントが取れた際にどういったお悩みを抱えているかを事前に情報収集して2.をお勧めするか、成果物納品による売り切りにするか決め打ちして先方に合わせた資料を作成しました。
幸いなことに3.の時点で何件かの発注をいただくことができたので、自分にできる最高のgiveをするよう心掛けました。ここでつくづく実感したのが、
プライベートだろうが発注先だろうが年下だろうが、 常に相手に対するリスペクトを持ち、感じてもらうことがいつか自分に返ってくるってこと。
当たり前のと思われるものもあるでしょうが、社会に出てから今まで実践してきたことで本当に実践していて良かったと思ってること。
- 仕事上のボールはできるだけ早く返す。遅れる場合はその旨伝える。
- お金を貸さない。貸したら催促しない。100円でも借りたらすぐ返す。
- メールの文面に必ず一回はお礼の言葉を入れる。
- SNSでも電話でもできるだけ早くレスポンスする。
- 「めんどくさい」「眠い」「ダルい」等のネガティブな発言は飲み込む。
- 周囲で衝突があったときは中立、もしくは弱い側のフォローに回る。
半ばなんとなく習慣にしていたこともありますが、起業した今これらを続けてきたことのメリットを強烈に実感しています。
確かに。たまにはええこと言うやないの。
とは言えタマ切れは起こる
有難いことに最初の一年は起業特需的なところもあってそれなりにお仕事もいただくことができました。医療機関、レストラン、営業職、大量調理施設などなど。
ところがひとりで事業を継続する上での最大の課題が、営業とクライアントワークの両立が難しいこと。既存のお客さんへの対応と同時並行して販路開拓するってことです。
やったー!!納品完了したー!満足してもらえたー!!
あ・・・次の仕事が・・ねぇ・・・・
どうしてもこういった事態は発生します。もっと上手いことやれれば良かったんですが、その、アレですよ。私ったらお客様目線が強いから目の前の仕事にフルコミットしちゃうとこあるじゃないですか。
計画性の無さを顧客満足度にすり替えるんじゃないわよ
とりあえずブログ書いてみる←いまここ
コロナの影響でクライアントの事業そのものがストップ。とは言え毎日YouTubeみてソシャゲしてゴロゴロうとうとしてるわけにもいかないので、種を撒かねばならぬ、と。

もともとあることないことテキストに起こすのは好きでしたので、深く考えずとりあえず3カ月くらいで100記事書きためてWordpressに引越しました。はなからWordpressで立ち上げなかったことをひどく後悔している模様。
だってその道の偉い人が考えてばっかじゃしょうがないから黙ってとりあえず手動かせとかって言うから!!で、今このブログを書きながらどうやってドメインパワー上げていこうかなー、と思考錯誤しているところでございます。
つくづく調べれば調べるほど奥が深いというか、闇が深いというか(笑)半年かかるか一年かかるかもっとかかるかもわかりませんが、集客やマネタイズの成功体験を語れるように手を緩めず今できることを積み上げて参ります。本当に痛感してること。
個人で仕事をするということは、全ての言動が資産形成につながる。
まだまだ私も起業して2年目。ブログ運営でも本業でも失敗しながら強くしなやかに成長していきたいと思っています。
長々とお付き合いいただいてありがとうございます。でわでわ。